川瀬巴水『大阪天王寺』

川瀬巴水「大阪天王寺」

川瀬巴水
大阪天王寺 1927年

古い建物の前に、傘を差し、背を向けた一人の人物が立っている。夜空からは静かに雪が降ってくる。しんしんと降る。川瀬巴水の『大阪天王寺』。この絵のなかの雪を見ていると、雪の儚さを改めて教えられるような気がしてくる。

川瀬巴水は、大正から昭和にかけての日本の版画家で、特に新版画における代表的な絵師として知られる。新版画とは、明治以降に衰退していった江戸時代の浮世絵版画の再興を願った版元の渡邉庄三郎を中心として始まった、新しい版画の世界を提示する芸術運動で、巴水以外にも、新版画の絵師として、高橋松亭や土屋光逸、吉田博、フリッツ・カペラリなどが挙げられる。日本の自然や街並みを描いた情緒豊かな風景画が多く、また、絵師によってそれぞれの個性も発揮される。

巴水は、“旅情詩人”と称されるなど、旅好きだったこともあり、旅先の光景をよく描いた。月夜や水辺、雨や雪などに宿る情緒が美しく、どの風景も、どこか遠い眼差しゆえに、より懐かしさを覚える。見たことがない場所の景色でさえも、見ていると懐かしいと思えるのは、この遠さもあるように思う。人物も、描かれているとしても後ろ姿が多く、匿名性の余白がある。

巴水の絵のなかで特に惹かれるのが、雪を描いた作品だ。同じ「降る雪」でも、様々な表情が巧みに描き分けられている。そんな叙情的な巴水の雪の絵の一つに、この『大阪天王寺』もある。天王寺とは、大阪の天王寺区にある四天王寺という寺院の略称で、西暦593年に聖徳太子によって建立されたと伝わる。赤い建物と雪のコントラストも美しく、背を向けて立っている一人の人物と足跡のささやかな存在感が全体を引き立てる。空から降りつづける雪の静けさには、儚さと永遠とが共存しているように思える。

日本の感受性は、降り落ちる、舞い散る、沈みゆく、といった自然の風物に向けた眼差しが繊細で、それゆえに無常観が彩りを持っている側面も大きいように思う。雨にせよ、雪にせよ、夕日にせよ、桜の花びらにせよ、特段の象徴性を込めずとも、力を込めて悲しみを表現しようとせずとも、その情景そのものを真摯に捉えれば、それだけでもう人の心の機微と共鳴するものがある。巴水のこの天王寺に降る雪も、ただ降っている、というだけで、すでに深い詩情に満ちている。