ゴッホ『ローヌ川の星月夜』

オランダの画家、フィンセント・ファン・ゴッホの代表作に、『星月夜』という絵がある。ゴッホを象徴するような独特の画風で描かれた村の景色──糸杉、教会、不穏なほど渦巻き状に輝く星空など──が、力強く、魅惑的に惹きつける。

フィンセント・ファン・ゴッホ
星月夜 1889年

この『星月夜』は、ゴッホがサン=レミの修道院併設の精神病院で療養していた1889年に制作され、その入院していた部屋の窓からの景色が描かれている。ただ、絵にある風景は、実際の風景とは異なり、故郷の記憶なども混じった幻想の村だったようだ。三日月や星々、夜空、糸杉や風景全体が溶け合って、一つの生命体のような躍動感がある。手前には、夜空に向かって糸杉が伸びている。糸杉はゴッホが惹かれたモチーフの一つで、弟のテオに送った手紙のなかでも、「古代エジプトのオベリスクのように美しい」と語っている。糸杉は、ヨーロッパでは死や宗教的な意味合いも含まれ、作品からは、生命力とともに死や狂気も孕んでいるように感じられる。

ゴッホの星月夜と言えば、この印象的な絵が代表作として知られる。一方、ゴッホには、もう一つ、「星月夜」の絵がある。先の『星月夜』の前年、ゴッホは、夜空の星々を主題とした作品を残している。『ローヌ川の星月夜』と呼ばれる、この美しい星空の絵は、ゴッホがまだ精神状態が悪化して病院に入る前、南フランスのアルルに住んでいた頃に描かれた。

フィンセント・ファン・ゴッホ
ローヌ川の星月夜 1888年

都会のパリの生活に疲弊したゴッホは、当時憧れていた日本を重ね合わせるように、自然と色彩が豊かなアルルに移り住んだ。この絵は、星空を描きたいという思いの強かったゴッホが、しばらくの期間熟考したのち、一晩で描き上げたそうだ。ローヌ川は、スイスとフランスを流れ、地中海に繋がる川で、当時のゴッホの住居の近くの風景が舞台となっている。対岸ではガス灯の光が輝き、水面に反射している。夜空は繊細で煌びやかな星々に満ちている。また、手前には寄り添うカップルも描かれ、甘美な雰囲気も醸し出される。

この『ローヌ川の星月夜』は、まだゴッホの症状がそこまで悪化していない頃の作品で、当時、アルルの自然の美しさもあり、調子もよく、制作に没頭していたようだ。ゴーギャンとの揉め事がきっかけで自身の耳を切るという自傷行為を起こし、病院に入院することになるのは、この絵の完成から数ヶ月後のことだった。

療養中に描いた『星月夜』では、そういったゴッホ自身の不安定さがより顕著に現れていたためか、この『ローヌ川の星月夜』と比べると、筆遣いや色に、感情的で鋭敏な、ある種の危うさも伝わってくる。意識と精神と世界とが溶け合って、今にも崩れていきそうな、ぎりぎりの調和を保っているゆえの力がある。一方、『ローヌ川の星月夜』は、まだゴッホ自身が、多少は落ち着いた姿勢で、客観の世界として、美しい夜空と川と男女を描いている。そんな違いが見られるように思う。