印象派や浮世絵の影響も受けながら、独自の画風を築き上げていった、オランダの画家フィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホと言えば、ひまわりの花以外に、耳切り事件や自殺といったイメージから、「怖い」という印象も抱かれやすいかもしれない。
確かに、ゴッホはしばしば狂気の画家とも称される。それはたとえば、精神的に不安定で、晩年には病院で療養しながら絵を描いていたこと。夜空やひまわり、糸杉など、内面の情念をそのまま表出したような激しい色や筆遣いの画風。拳銃で自らを撃ち、自殺と考えられる最期などが、理由として挙げられる。
また、特にゴッホの狂気性を象徴する有名な話として、先ほど触れた、彼が精神病院に入院するきっかけにもなった「耳切り事件」がある。
ゴッホは、1888年、2年間過ごしたパリを離れると、明るい光と自然を求め、南仏のアルルに向かった。そして、その地で画家仲間と共同生活をしながら表現に勤しむというユートピアを夢想し、絵画作品としても残されている「黄色い家」を借り、画家たちに招待状を送った。代表作の『ひまわり』も、この部屋に飾ろうと思って描いた絵だった。
しかし、ゴッホの激しい気性を知っていたこともあり、この誘いに乗ってゴッホのもとに来てくれた者はほとんどいなかった。ゴッホの弟で画商のテオの働きもあり、唯一訪れたのは、ポール・ゴーギャンだけだった。ゴッホは、ゴーギャンの来訪が嬉しくて仕方がなかったものの、そのゴーギャンとも、わずか2ヶ月ほどの共同生活の末、衝突して別れることになる。
フィンセント・ファン・ゴッホ
黄色い家 1888年
耳切り事件は、このゴーギャンとの仲違いの際に起きた。
ゴーギャンとゴッホでは、絵画制作における価値観にずれがあったこともあり、色々と合わず、変わり者で個性の強い両者ゆえに、衝突することは目に見えていた。去っていくゴーギャンに対し、ゴッホは、剃刀を持って追いかけ、それから、また家に戻っていくと、自分の左耳下部を切り落とし、その後、馴染みの娼婦のもとに持っていって渡したという。
どうにもうまく行かない悲しみや悔しさが、ゴッホを激しい自傷行為に向かわせたのだろうか。耳を切った理由としては、ゴーギャンに、自画像のデッサンで耳の形が変だと指摘されたことによる自暴自棄が要因だったのではないか、といった指摘もある。
いずれにせよ、ゴッホは、この頃、今のような世界的画家ゴッホではなかった。弟テオ以外の理解者も皆無に等しく、作品も売れない、孤独な画家による不気味な奇行としか思えない行為であり、この耳切り事件は、地元の新聞にも掲載された。
先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為──哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない──の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
『ル・フォロム・レピュブリカン』 1888年12月30日
散々な言われようだが、遠い過去の歴史的な画家のゴッホだからまだ伝説のように飾り立てられるものの、もし、同時代に、近所で、売れない画家がこんな事件を起こしたら、と思うと、猟奇的な事件として怖がられるのも仕方がないのかもしれない。
どんな心境だったのか、耳を切ってからまもなく、痛々しく包帯をした、うつろな眼差しの自画像をゴッホは描き残している。
フィンセント・ファン・ゴッホ
包帯をした自画像 1889年
耳切り事件のあと、精神病院に入院したゴッホは、療養中も孤独に絵画制作を続け、魅惑的な『星月夜』などの作品を残すものの、1890年7月、拳銃自殺と見られる死によって、37歳という若さで亡くなる。
ゴッホに関する伝記などを読んでいると、彼の“狂気”においては、満たされない愛情も大きかったのではないかと思う。
ゴッホには、彼が生まれる一年前、生後すぐに亡くなった兄がいた。兄は、ゴッホと同じ名前で、子供の頃に、ゴッホは森のなかにある自身の名前の刻まれた墓を目にしたそうだ。両親にとって、自分は兄の代わりなのではないか、と自身の存在意義に関する根底の不安に悩んだこともあったのではないか。他者への愛が強すぎて関係を壊してしまうことには、そういった背景も一因としてあったのかもしれない。
また、“狂気の画家”と言っても、理性のブレーキが乏しければ、もっと荒唐無稽な絵を描いたり、グロテスクなモチーフを選ぶ、といったこともあるように思う。しかし、ゴッホは、死の半年前にも、美しいアーモンドの花の絵を、テオに息子が生まれたことを祝って描いている。ゴッホの書いた手紙の内容を見ても、分析力も描写力もあり、一概に“狂気”という言葉では表現しきれないものがある。
むしろ、張り詰めた寂しさや繊細さのなかで、抑え難い感情が、その都度何かのきっかけで溢れ出し、極端な行動に走らせ、それが次第に膨れ上がっていったのではないか。そして、ゴッホのなかにおける、ある種の二面性が強烈にまじわったものが、(ゴッホにとって、幸か不幸か)絵画だったのかもしれない。
──私にはいつも、自分が、どこかのある目的地に向かって歩いていく旅人のように思われる。どこかのというのは、実は決まった目的地がないからだ。そのことだけは明白で真実のように思える。だから、生涯の最後になって、きっと自分は誤っていたということになるだろう。その時には、美術ばかりか、そのほかのすべてのことも単に夢にすぎないし、自分自身は結局何ものでもなかったということがわかるだろう。(フィンセント・ファン・ゴッホ)